死が迫ってくるとなぜ男は女を求めてしまうのか?

「白い影」や「無影灯」での直江先生や石倉由蔵に共通していますが、死が近づくと女性を求めている点です。

特に直江先生は、モテ男ぶりを発揮し「無影灯」では未遂も含めると5人の女性に手を出しています。

死が迫ってくるとなぜ男は女を求めてしまうのでしょうか?

 

私も一時期死を意識せざるを得ない状況になりました。

すると、普段の数倍女性を求めたくなりました。

そして、さらにそれが発展すると自分の子供を残したいという気持ちまで芽生えてきました。

  • この苦しみから逃れたい。
  • 自分にしかできないことは何だろうか。
  • この世から消えてしまう前に自分の生きた証を残したい。

そんな冷静ではない感情が沸き起こってくるのです。

そして、死の恐怖と戦うストレスに対抗するには人肌しかありません。

 

戦時中の慰安婦もそうでしょう。

これから国のために戦争に行く。

明日になれば自分は死んでいるかも知れない。

そんな計り知れない恐怖とストレスから逃れようとすると自然とそうなります。

メカニズムで説明すると、常に緊張感のある環境にいるとアドレナリンが出続けている状態になり、セロトニンが不足し、リラックスすることができずに精神に支障が出ます。

慰安婦などの存在を肯定するわけではありませんが、オスと言う性質上、死の恐怖とストレスを与えられると女性を求めずにはいられないでしょう。

 

近年、草食系男子が増えたと言われていますが、それは死の恐怖やプレッシャーを強く感じていないからではないでしょうか。

プレッシャーのある仕事や生活をしている人ほど女性を必要とします。

あんなにも分刻みで動く忙しい政治家が不倫をしたり愛人を作るのは、プレッシャーが非常に強く、そうでもしないとストレス発散できずに自分を保てないからでしょう。

たしかに「国の税金でたくさんのお金をもらってるのに不倫だなんてけしからん!」と怒りの気持ちになるのも仕方ないでしょう。

しかし、普通の人の何倍もプレッシャーが強いのは言うまでもありません。

実際に政治家と同じプレッシャーを受けたら普通の人であればまず耐えられずに精神を病んでしまうでしょう。

そう考えたら少しは同情する気持ちも湧いてくるのではないでしょうか。

話はそれましたが、これが死や恐怖、強いプレッシャーを感じるほど女性を求めてしまう理由です。

2 Comments

深澤 タモツ

 竹内さん逝去のところでコメントさせていただいた深澤です。DVDを見返しコメントしたくなりました。ここで書くのは「直江先生が倫子に何も言わな買ったのは正直残酷すぎると思う」の記事についての思いとダブります。
 原作である無影燈の中の直江の遺書には次のようにあります。「ただ無性に女に溺れ、女の中に入りたかった。いい訳じみるが、女と一緒の時と、薬が効いている時だけ、私は死を忘れることができた。」この男のエゴイズムは、これが書かれた1970年代前半には、ある程度理解がえられたのかもしれませんが今の時代は難しいでしょう。よって、ドラマでは志村倫子との純愛が強調されていますが、直江は自分の病気を隠し倫子を抱きました。これは僕にとっては甚だ疑問な展開と考えました。不知の病を告げずして、深い関係にまでなってしまうのはやっぱり女性の意向を無視した男のエゴイズムであり、若いですが医療のプロでもある倫子を、ある意味馬鹿にしている描き方と思いましたがいかがでしょうか?
 倫子に対する性的欲望は我慢し、倫子に病気を打ち明けるなり倫子がわかってしまった時点で、倫子の気持ちを確認し、子供を作ることも含めて結ばれる、というのがいいんじゃないかな、と思った今日この頃です。

追伸
 それにしても竹内結子さん素敵です。故にとても残念ですね。

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管理人

深澤 タモツさん
>コメントありがとうございます。

原作である無影燈の中の直江の遺書には次のようにあります。「ただ無性に女に溺れ、女の中に入りたかった。いい訳じみるが、女と一緒の時と、薬が効いている時だけ、私は死を忘れることができた。」この男のエゴイズムは、これが書かれた1970年代前半には、ある程度理解がえられたのかもしれませんが今の時代は難しいでしょう。
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仰るように、現代ではこのまま書いたら女性蔑視扱いされてしまうでしょう。

これは僕にとっては甚だ疑問な展開と考えました。不知の病を告げずして、深い関係にまでなってしまうのはやっぱり女性の意向を無視した男のエゴイズムであり、若いですが医療のプロでもある倫子を、ある意味馬鹿にしている描き方と思いましたがいかがでしょうか?
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女性の意向を無視している点と男のエゴイズムの点も仰る通りです。
ただ、馬鹿にしているというよりは、先生ご自身が言っていたように、すべてを理解した上での、先生のわがままかであると私は解釈しております。(白い影の方)
いわば下記のような考えです。

典子の笑顔を失うのが嫌だ。

告げたら典子の笑顔がなくなってしまう。(本当は告げずに消えたほうがつらいのはわかっているが)

それは自分は嫌だ。

よって何も言わずに、消える。(わがままだけれども許してほしい。君は強いからきっとわかってくれる)

自分のわがままについては、支笏湖に行く前に、小橋先生に告げている通りです。

倫子に対する性的欲望は我慢し、倫子に病気を打ち明けるなり倫子がわかってしまった時点で、倫子の気持ちを確認し、子供を作ることも含めて結ばれる、というのがいいんじゃないかな、と思った今日この頃です。
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仰るようにそれが正論です。
しかし、我慢は先生は選択しないでしょう。
石倉さんの場面でも、死ぬのだからやめろと言われてもやめないだろうと先生が言っているように、死ぬのだから可能な限り、本人の好きなようにさせてあげたいという意向を感じます。

先生で言えば、最後まで典子の笑顔が見たかったので、言わなかったというのが死ぬ前の最後の意向です。
性的欲望というよりは、男性だけかも知れませんが、死が近づくと逆の性質である性行為を求める本能があるのです。
それは性欲のようで、一般的に言われている性欲では無いのです。
意味合いが違うのです。
恐怖への逃避として対抗できるのは、性行為しか無いという思考になってしまうものなのです。(死の真逆である、生殖行為なので)

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